人生はミュージカル

自戒と快楽の狭間で生きる夢見がち女による雑記

ロースクールを卒業しました。

今週のお題「卒業」

 

久しぶりに勢いで更新!

 

先日、ロースクールを卒業しました。

 

 

私の中で変化の潮を感じた3年間でした。

色々あってダブって1年長くいる羽目になったけど、そのおかげで自分の歪んだ価値観からの解放があったと思えば結果オーライかな(いくつか過去記事にあります)。

 

 

 

 

 

ー法とは、感情とは無縁のものであるー

 

わたしは学部入学以来、そう信じてきました。

 

そして、自分の情緒的な部分を克服したいとロースクールを志望するようになりました。

 

私は大学に入学する前は、直感的かつ直感を言葉にするのが得意で、自由に発言できる人でした。

だけど、法学部ではとにかく論理が重要視される…。そして学生の多くは論理性を求めるあまり、感情の表現や直感的な感想を馬鹿のものとして馬鹿にするようになっていました。

それは法律学の場面だけでなく、価値観として染み付いていて。

ちょっとした議論を交わすときには「あなたは感情的だ」と言った方の勝ち、といっても過言ではなかったように思えます。

 

ていうか、恥ずべきことですが、かくいう私もそうやって感情を馬鹿馬鹿しいものだと思い込んできました。ディベートにおいて、相手方の反論が感情的であれば、真意を探ろうとせず聞くに値しないと断じました。

そしてチームメイトに愚痴をこぼしました。「法律論と感情は切り話すべきなのに!」と。

 

私はそんな空気の中で生きていたので、自分の感情を恥じ、論理的思考力に渇いていました。

とにかく法律的な、論理的な知見を手に入れたくて、感情的だと思われたくなくて、ロースクールに入ったのです。

感情的な自分と対極にある法を克服してやろう…そんな気持ちでした(既に法律学に対する苦手意識ありすぎ!!)。

 

でも、私、ロースクールに3年通って気付いたんです。

「法とは感情とは無縁のものである」なんて嘘っぱちであると。

 

ある私の尊敬する先生は、授業において「素人的思考」をとても尊重していました。

そして私の「感情的な」素人思考を法的に分析し、問題提起をして下さるのです。

 

たとえば、こんな風でしょうか。

(授業とは異なる超初歩的な事例でやってみます。これなら法律知らない人もわかるかな?)

「何も事情を知らない看護師に、患者に恨みのある医師が薬であると称して毒薬を渡した。看護師は医師の指示を受けて患者に投薬し、患者は死亡した。(過失は考えないでね!)」

医師は直接殺人行為を行っていないから、殺人罪の正犯は成立しないのでしょうか。

この結論に対して、「医師に殺人罪が成立しないのはおかしい!」という直感、感情的な感想。

「では、そのためにはどの要件が問題になるでしょうか」

…と考えた時に、「医師は直接手を下さなくても『殺人』という行為をなしているのでは?」という実行行為の解釈の構築に繋がる。

 (この事例だともはや間接正犯が常識すぎて逆に分かりにくいかな。でも間接正犯って要はこういう風に生まれたよね。)

 

その時気付いたのです。

法は感情を実現するためにあるとも言える、と。

 

感情による恣意的判断を防止するという機能と、感情を実現する機能は両立します。

むしろ2つでセットなのだと。

 

 法的思考というのは、感情を論理的に説明するためのものではないでしょうか。

 

 

 

 

最近、各地裁において立て続けに強制性交等罪の無罪判決が出ています。

(個々の判決の是非は報道だけではわかりません。私はこの判決の是非については言及する気はありません。)

そして、それに対しては批判も出ています。それらの多くは「素人」による「感情的」な叫びです。

「なぜ抗拒不能であると認定されたのに、抗拒不能であったとの認識がないからって無罪なの?」

 

けれど、私のフォローしている法学部やロースクールの人達(面識のない人もたくさん)の少なくない人たちがその叫びを馬鹿にしているのが気になりました。

「故意がなければ無罪ということも知らずに感情的に批判するな」

「感情で判決が変われば法治国家ではない」

などなど。

 

学部時代の私はこれらに大いに頷いたことでしょう。

ですが、今は本当にそうだろか?と思います。

 

 

私たちがすべきなのは法的知見に基づかない意見を土俵から追い出すことではないはずです。

 

私たちは法律の知識があるならなおさら、素人感情に耳を傾けて、法的に再構築すべきではないのでしょうか。

そして、その上で議論すべきではないのでしょうか。

 

上述の「認識がないから無罪なんて!」という感情的な疑問は「故意がなくても有罪にしろ」ではなく、「故意の認定方法への疑問」とも捉えられます。

なぜ、性犯罪において故意の認定方法に疑問が出るのか…。

性犯罪という犯罪の故意認定においてどこまでの認識認容がその対象となるのか…或いはどのような事実をどのように評価するのか…これってまさに法的な問題ですよね。

素人が疑問に思うところを法的問題に昇華して議論する、または説明をする。

わたしはそれこそ法律を知る者が求められる姿だと思います。

 

 

 

 

 

わたしはロースクールの全過程を修了しました。それ自体は全然すごいことじゃないしまだなんの身分もないど素人にすぎません。

でも、勉強していればそれなりに法的な知識はつきます。

 

そしてそんな今、私は強く思います。

 

素人を置いていかない法律家になりたいと。

素人の感情を法的問題に昇華させて対話できる人になりたいと。